引受
アジャンクールの戦い(「アザンクールの戦い」とも)は、百年戦争中の1415年10月25日、フランスのアジャンクールで、ヘンリー5世の率いるイングランド軍(7,000名)がフランス諸侯軍(20,000名)を破った戦い。イングランド軍が長弓隊を駆使して、数に勝るフランスの重装騎兵に圧勝した戦いとして有名。多くのフランス貴族が討ち取られ、フランスがヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承を認める原因になった。 雨上がりの狭間地に陣取ったイングランド軍に、圧倒的な数のフランス重装騎兵が突進したため土壌が泥濘と化し、人や馬の脚がとられて進退窮まったところに、イングランドの軽装歩兵が殺到して殲滅したという研究説もある。 オーレの戦い(Battle of Auray, 1364年9月29日)は百年戦争の一部でもあったブルターニュ継承戦争を終結させた戦闘で、イングランドが支援するモンフォール家のジャン4世が、フランスが支援するシャルル・ド・ブロワを敗死させ、唯一のブルターニュ公となった。 1360年にブレティニィ・カレー条約によりイングランド、フランスが停戦した後、ブルターニュでも和平交渉が行われていたが、1364年に決裂し戦争が再開された。ジャン4世は、イングランドのジョン・チャンドスの支援を受けて、1342年以来フランス・ブロワ側の支配下にあるオーレの町を攻撃し、町中にある城塞を包囲した。 城側は十分な食料が無かったため、ミクルマス(9月29日)までに援軍が来なければ開城することに同意した。 しかし、9月27日にシャルル・ド・ブロワとフランス軍を率いるベルトラン・デュ・ゲクランの援軍がオーレに到着し、28日に城の前を流れる川の左岸に展開した。これに対し、モンフォール軍は城兵とブロワ援軍に挟撃されることを恐れ、オーレから離れて川の右岸に布陣した。29日に交渉は決裂し、ブロワ軍は川を渡り南面して布陣し、それに呼応したモンフォール軍は北面して布陣した。 左にオーセル伯、右にゲクラン、中央にシャルル・ド・ブロワで、わずかな予備隊は使用されなかった。各部隊は約1000人ずつ。 モンフォール・イングランド軍 右にオリビエ・ド・クリソン、左にイングランドのロバート・ノールズ、中央にジャン4世とジョン・チャンドスで、ヒュー・カルヴェリーの元にかなりの予備隊が存在した。 フランス側のクロスボウとイングランド側の弓兵との小競り合いから始まり、まもなく重武装兵の正面からの激戦に突入した。両陣営とも長期にわたる戦争の決着を意図しており、捕虜を取るなと命令されていた。 モンフォール軍は各隊にわたって被害を受けたが、予備隊からの補充により持ちこたえた。一方、ブロワ軍の右翼も被害を出したが、補充が無いため崩れだし中央に流れ込み、次いで左翼も崩れだし、オーセル伯が捕らえられた。中央の部隊は戦場からの逃走を図ったが、シャルル・ド・ブロワは命令を忠実に守ったイングランド兵に殺された。ゲクランは全ての武器が尽きるまで奮戦したが、ジョン・チャンドスに降服した。 この戦いの結果、ゲランド条約が結ばれ、ブルターニュ継承戦争は終結した。1365年にフランス王シャルル5世はジャン4世を正式にブルターニュ公として承認した。 カスティヨンの戦いは、百年戦争の間に、フランス人、ブルターニュ人とイギリス人の間で行われた最後の戦いである。この戦いは、ヨーロッパ史において大砲が戦争の決着をつけた主要な要因となった初めての戦いであると言われている。 1451年にフランスがボルドーを占領すると、百年戦争も終結を迎えたように思われた。しかしながら、イングランド王家によって300年も統治されてきたボルドーの市民達は、自分達の事をイングランド人だと思っており、イングランド国王ヘンリー6世にこの地方を再び取り返すことを要望する使節を送った。 1452年10月17日、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットは、ボルドー付近に3000人の武装兵および射手とともに上陸した。フランスの守備隊はボルドーの市民たちによって追い出され、彼らは大喜びでイングランド人たちのために市の門を開けた。ガスコーニュ地方の多くの町が、ボルドーの例に倣って、イングランド人達を受け入れた。 冬の間、フランス国王シャルル7世は自分の兵隊を集め、作戦行動をとるべき季節に備えた。春がやってくると、シャルルは、ボルドーに向けて、3つの軍隊にそれぞれ別の経路をとらせて送り出した。 シュルーズベリー伯はこの新たな問題に対応するために、新たに3000人の兵隊を本国から受け入れたが、その数はガスコーニュの境界まで何千人ものフランスの軍隊を押し返すには全く足りないものであった。最初にやってきたフランス軍がカスティヨンを包囲下に置くと、シュルーズベリーは町の守備隊長の要求を受け入れた当初の作戦(野戦で国境まで押し返す)を放棄し、この町を解放することに取り掛かった。フランス側の指揮官ジャン・ビューローは、シュルーズベリーを恐れ、自分の配下の7000人から10000人の兵士に陣地を塹壕と矢来で囲うように命令し、300台の大砲を矢来の隙間に並べた。数の上での優位を享受している筈のフランス側にしては、恐ろしく防御的な編成であった。彼らはカスティヨンを囲む一切の努力をしていなかった。 シュルーズベリーが1453年7月17日にフランス側の陣地に近づいたが、それは1300人の騎乗兵からなる前衛部隊を伴った彼の軍隊の主力が到着する前であった。彼はフランスの野営地の前の森で、同程度の規模のフランス側の自由射手(francs archers(フランザルシェ)、弓の訓練をする代わりに租税を免除(franc)された自由民、民兵)からなる部隊を撃破しており、自らの兵の士気を大いに向上させていた。 最初の小競り合いから数時間後、カスティヨンの町からの伝令が、シュルーズベリーの休憩中の軍隊(彼らは夜を徹して不動産投資 してきていた)に、フランス軍は総退却し、数百もの騎兵が要塞を捨てて逃げ出した、と報告してきた。町の城壁の辺りから、粉塵がもうもうと巻き上がって遠ざかっているのが見えた。彼にとって残念なことに、逃げ出したのは来たるべき戦闘の前に陣地を去るように命じられた非戦闘員従軍者(商人・洗濯婦・売春婦)でしかなかった。 シュルーズベリーはすぐさま、彼の兵士達を再編成すると、フランス軍の陣地に向けて進撃したが、完全武装した数千の弓兵と数百の砲門によって防御されている堡塁を目の当たりにしただけだった。驚きはしたものの、シュルーズベリーは怯まず、フランス軍に対して突撃の合図を出した。ちなみに、シュルーズベリーはこの戦闘には直接参加できなかった。彼は直前の戦いで捕虜になっており、捕虜宣誓(釈放後も一定期間戦線に立たぬことを誓って外為 される)をして仮釈放されており、それゆえ、武器をとってフランス人と戦うことができなかったのである。 イングランドの軍隊はフランスの陣地に突撃したが、塹壕を越えても雨霰と降って来る矢や太矢(石弓の矢)、猛烈な臼砲や大砲や小火器の攻撃を喰らっただけであった。集中砲火が行えた理由は塹壕のおかげであるが、おそらく偶然に、かつての小河川の河床を利用していたので、稜堡を備えた防御陣の外見になっていた。 一旦戦闘が始まると、シュルーズベリーは主だった召使からなる何人かの兵隊の増援を受け取った。1時間後、ブルターニュ公により派遣されたブルターニュ軍の騎兵が到着し、イングランド軍の右側面を衝いた。イングランド軍は敗走し、すぐにフランス軍の主力によって追撃された。 この大潰走の最中、シュルーズベリーの馬は大砲の砲弾によって殺され、その馬の下敷きになった。ある自由射手が、彼がシュルーズベリーであることに気づき、手斧で彼を殺すまでその状態であった。 カレー包囲戦(Siege of Calais)はクレシーの戦いの後、1346年9月4日から1347年8月3日に亘って、イングランド王エドワード3世がフランスの港湾都市カレーを包囲し開城させた戦い(攻城戦)。以降、カレーは百年戦争を通じて重要なイングランドの拠点であり続け、百年戦争後も1558年までイングランド領だった。 クレシーの戦いの後、イングランド軍はこれ以上の行軍を行う戦力、物資を欠き、またイングランドの艦隊は既にノルマンディーからイングランドに戻っており、イングランド軍は大陸に留まるための拠点を確保する必要があった。カレーは、今後の戦略的拠点として理想的な条件を有していた。100年以上前から二重の城壁と濠を有しており、さらに市内の北西部にある城塞は独自の濠と防護設備を有しており、非常に防備が固かった。それに加え、イングランドからの最短距離でイギリス海峡に面しており、一度、占拠してしまえば海からの補給を受けることができた。しかし、今後の拠点として使用するためには、この防護の固い都市にあまり損傷を与えないで奪う必要があった。 1346年9月にイングランド軍は包囲を外為 した。包囲軍はイングランドとフランドルからの補給を受けており、フランス王フィリップ6世は、その補給路を断とうとしたが失敗した。一方、包囲軍も当初は、フランスに協力するジェノヴァ船によるカレーへの補給を完全に遮断することはできず、約2ヶ月近く進展は無かった。 11月に大砲、カタパルト、長梯子などが供給されたが、都市を囲む湿地帯はそれらの据え付けに適しておらず、有効に利用できなかった。冬になるとイングランド軍における不満は高まったが、エドワード3世は強い指導力を発揮し包囲を継続した。カレーの周辺に無数の掘っ立て小屋を築かせ、商人や職人を集め、市場や店も用意した臨時の集落を作り上げて長期の包囲に備え、食糧不足による開城を目指す戦術に変更したのである。フランスによる海上からのカレーへの補給は一度は成功したが、その後はイングランド海軍に阻まれ食料、補給品の供給は途絶えることになった。春になるとイングランド側には多くの補給品、船、兵が到着し、戦力はクレシーの戦いの時以上に膨れ上がり、海上封鎖もより完璧となった。 1347年6月になるとカレーへの食料、水の供給はほとんどなくなり、7月にガレー船10隻を含むフランス補給船団がイングランド船団に追い払われると、口減らしのために500人の子供、老人を都市から外に出したが、イングランド軍は彼らを追い返したため、彼らは市内にも戻れず、城壁の外で飢え死にすることになった。(ただし、フロワサールの年代記の記述では、エドワード3世は彼らに食事と金を与えて通行を許したとある) フランスは船、ボート等によるカレーへの補給には最大限の努力を払っていたが、包囲軍への直接攻撃は行えなかった。ようやく7月に、フィリップ6世は軍を集めてカレー近くに陣を敷いたが、将兵共に戦闘における自信を失っており、攻撃をかけることができなかった。7月31日に、ついに諦めて陣を引き払い撤退した。 8月1日、救援の希望を失い、食料も尽きてカレーの守備隊、くりっく365 は開城を提案した。エドワード3世は大部分の市民を市内から追放し、代わりにイングランドから商人、職人を呼び寄せて居住させた。市内には、イングランドからの補給が無くても当面維持できるだけの多くの物資を貯蔵したが、加えて羊毛を蓄え、フランドルに安定して羊毛を供給し資金を得られる体制を整えた。後に周辺地域を獲得すると多くの砦を築き、カレーの防護を一層強化した。これにより、イングランド軍はいつでもカレーを拠点として、出撃、撤収することができるようになった。 ロダン作、カレーの市民ワラント 側では、カレー開城の際に6人の市民代表がエドワード3世の元に出頭して市民を救ったという以下のような話が広く知られており、ロダンはこれを元に彫像「カレーの市民」を作成し、現在もカレー市内に設置されている。ただし、イングランド側では、騎士道を重んじたエドワード3世が市民を全員処刑するつもりだったというのは在り得ない話だと否定的である。 カレーが飢餓により開城を申し出た時、エドワード3世は、これ程に抵抗してイングランドを苦しめた罰として、全市民を処刑するも身代金を取るもエドワード3世の自由とする無条件降伏を要求した。しかし、交渉に当たったウィリアム・マーニーなどの忠告により、市民を助ける代わりに主要な6人の市民が代表として、無帽、裸足で首に処刑のためのロープをまいて出頭するよう命じた。これを受けて、ユスターシュ・サンピエールを始めとした6人の市民が勇敢に名乗りを上げ、指示された通りの装いで城門の鍵を持って王の元に現れた。王は彼らの処刑を命じたが、王妃フィリッパの涙ながらの取り成しにより、彼らの命を助けた。フィリッパは彼らを丁重にもてなしカレーに帰らせた。